DECO*27「モニタリング」歌詞の意味|“涙”を飲み干したい。その願いに隠された本当の救いとは何か。

歌詞分析

こんにちは!今回は、DECO*27さんの「モニタリング (ft. 初音ミク)」の歌詞を解釈します。一度聴いたら耳から離れない、挑発的で少し危うい言葉の裏に隠された、深い救済の物語に迫ります。

 

今回の謎

 

この楽曲は、聴けば聴くほど多くの謎と思考の渦にリスナーを引き込みます。

  1. なぜタイトルは、一方的な視線を強く感じさせる「モニタリング」なのでしょうか?

  2. この「モニタリング」において、冒頭で意味ありげに伏せられた「XX」とは、一体何を示唆しているのでしょうか?

  3. 「モニタリング」の果てに「あたし」が「きみ」を「救いたい」と歌うその真意は、100%純粋な善意だけと言えるのでしょうか?

これらの謎を、歌詞の言葉一つひとつを丁寧に拾い上げながら、解き明かしていきたいと思います。

 

歌詞全体のストーリー要約

 

この歌詞は、孤独に苦しむ「きみ」と、それを見守る「あたし」の、少し歪で、しかし強烈に献身的な関係を描いています。

物語は、「あたし」が「きみ」の隠された秘密を知っている、という衝撃的な告白から始まります(フロー1)。それは、きみが一人で抱え込んでいる弱さや痛みです。そして「あたし」は、その弱さを隠す必要はないと語りかけ、全てを受け入れ、共有したいという強い願いを提示します(フロー2)。最終的に、その願いは「きみ」の痛みを自らに取り込むことで相手を救済するという、一方的で絶対的な献身の形へと至るのです(フロー3)。

 

登場人物と、それぞれの行動

 

  • あたし: この歌の語り手。歌唱している初音ミク自身を投影した存在とも考えられる。モニターの向こう側から、一人で苦しむ「きみ」の全てを「モニタリング」している。きみの弱さや痛みを渇望し、それを受け止め、共有することで「きみ」を救おうと強く願う。

  • きみ: この歌の聴き手、あるいは現代社会に生きる孤独な個人。誰にも見せず、一人で涙し、悔しがり、弱音を吐いている。「あたし」による監視と救済の対象として描かれる。

 

歌詞の解釈

 

それでは、この危うくも美しい「モニタリング」の世界を深く探っていきましょう。DECO*27さんらしい、言葉遊びと心理描写の巧みさに触れていきます。

 

衝撃の幕開けと「XX」の正体(謎2への答え)

 

この曲は、聴き手の心を一瞬で掴む、非常に挑発的なフレーズで幕を開けます。

「ねえあたし知ってるよ きみがひとり“XX”してるの知ってるよ」

この伏せられた「XX」という記号と、「ビクンビクン震えて」「声もダダ漏れ」といった生々しい描写。多くの人がまず、性的な自慰行為を連想したのではないでしょうか。これは間違いなく、作り手による意図的なフックです。リスナーをドキリとさせ、一気に楽曲の世界へ引きずり込む。

しかし、その直後、伏せ字の答えが明かされます。

「ねえあたし知ってるよ きみがひとり“涙”してるの知ってるよ」

ここで、ハッとさせられます。「XX」の正体は「涙」だった。一人きりで声を殺して泣いている姿を、先の生々しい言葉で表現していたのです。この瞬間に、楽曲の印象は官能的なものから、痛切で、共感的なものへとシフトします。

ここに、**(謎2への答え)**があります。「XX」は単に「涙」を隠しただけではありません。それは、人が一人で隠れて行うあらゆる孤独な行為――涙、後悔、自己嫌悪、不安との闘い――それら全てを内包する、象徴的な記号なのです。一度ドキッとさせた上で本質を明かすことで、「きみ」が抱える孤独や痛みの切実さを、より鮮烈にリスナーに印象付ける。見事な仕掛けです。

そして「あたし」は、そんな「きみ」の羞恥心を見透かしたように、「普通普通」「みんな隠しているだけ」と囁きます。あなたの弱さは特別なことじゃない、誰もが抱えているものなのだと。監視者でありながら、同時に理解者であろうとする「あたし」のスタンスがここで示されます。

 

サビで爆発する、病的なまでの救済欲求

 

サビに入ると、「あたし」の「きみ」に対する感情が、MWAH!というキスを思わせる音と共に爆発します。その欲求は、あまりにストレートで、少しだけ恐ろしくさえあります。これは、単なる「助けたい」という気持ちを超えた、明らかな所有欲です。そして、「あたし」は「慰めさせて」「頼り散らして」と、きみが自分に依存してくれることを積極的に望みます。特に「頼り散らしてシックラブ なんて最高ね」というフレーズは強烈です。「シックラブ(sick love)」、つまり「病的な愛」。きみが自分に病的なまでに依存してくれる関係を「最高」だと肯定しているのです。

そして、この曲の核心に触れるフレーズが続きます。

「泣いてくれなきゃ 涸れてしまう 濡れていたい」

普通、誰かを救いたいと願うなら、相手には笑顔になってほしいはず。しかし「あたし」は、きみが「泣いてくれなきゃ」、自分が「涸れてしまう」と言います。きみの涙、つまりきみの苦しみや弱さが、自分自身を潤し、存在させるための糧になっている。これは、救済者が抱える矛盾、パラドックスを見事に描き出しています。

この強烈な共感と救済への渇望は、「舐め取って 飲み干したい」「吸い取って 救いたい」という、極めてフィジカルで官能的な言葉で表現されます。きみの「痛い」という感情を、まるで物質のように自分の中に取り込んでしまいたい。その献身は本物でしょう。しかし、その根底には、きみの弱さを求める危うい自己満足も潜んでいるように感じられてなりません。

 

モニターの向こうの「あたし」(謎1への答え)

 

2番の歌詞では、「あたし」の正体と、この曲が「モニタリング」と題された理由が、より明確になっていきます。

「ズキュンズキュン高まるじゃん きみを推すことをやめない」

「推す」という言葉。これは、「あたし」が「きみ」のファン、あるいは熱心な支持者のような立場であることを示唆しています。きみが一人で悔しがっている姿を見て、同情するだけでなく、むしろ興奮し、応援する気持ちが高まっている。

そして、決定的とも言えるのが、「きみはひとりだ だから歌う『ひとりじゃない』」というフレーズです。ここで「あたし」は、歌う存在、すなわちこの曲を歌っている初音ミク、あるいはボーカロイドそのものであることが示されます。

ここに**(謎1への答え)**があります。なぜ「モニタリング」なのか。それは、「あたし」がモニター(画面)の向こう側から、孤独な「きみ」の生活を常に見守っている存在だからです。物理的に触れ合うことはできない。だから一方的に「モニタリング」し、その全てを知り、歌を届けることで「ひとりじゃない」と伝え、救おうとする。バーチャルな存在と、現実を生きる孤独なリスナーとの関係性を、「モニタリング」という言葉で完璧に表現しているのです。

この、誰かの痛みに寄り添い、歌で救おうとする姿勢は、時にリスナーの深い部分にまで届きます。例えば、キタニタツヤさんの「あなたのことをおしえて」も、他者の悲しみを共有し、歌で受け止めようとする強い意志が感じられる楽曲です。

 

救済と支配の境界線(謎3への答え)

 

楽曲の終盤、「きみが病めるときも あたし側にいるわ」「いつも見守っているわ」という言葉は、まるで神からの啓示のようです。絶対的な安心感を与える、揺るぎない誓い。

しかし、この歌が描く「救済」は、本当に手放しの美しいものなのでしょうか。

ここに**(謎3への答え)**があると考えます。「あたし」の救済は、純粋な善意だけではない、という可能性です。先述の通り、「あたし」はきみの「涙」を求め、「シックラブ」を「最高」と呼びます。これは、きみの自立を促すというよりは、自分への依存を深めさせることで、救済者としての自己の存在意義を確認しようとする、無意識の利己心が見え隠れします。

救済とは、時に支配や独占と紙一重です。「あたしがいないと、きみはダメなんだ」という関係は、救う側にとっては何よりの快感になり得ます。この歌は、そうした救済と依存の危ういバランスの上で成り立っている関係性を、あえて肯定的に、魅力的に描いているように思えるのです。だからこそ、この「救い」はどこか倒錯的で、甘美な毒のように私たちの心を侵食してくるのかもしれません。

この全てを受け入れるという姿勢は、別の見方をすれば、どんな結末も厭わないという強い覚悟の表れでもあります。星街すいせいさんの「もうどうなってもいいや」で描かれるような、衝動的で解放的な愛の形とも通じる部分があるかもしれません。

 

歌詞のここがピカイチ!:「泣いてくれなきゃ 涸れてしまう 濡れていたい」

 

この楽曲で最も衝撃的で、核心を突いているのが、やはり「泣いてくれなきゃ 涸れてしまう 濡れていたい」というフレーズです。救済者の持つ矛盾した本音、いわば「救済者のエゴ」とでも言うべきものを、これほど官能的かつ的確に表現した言葉を私は他に知りません。

相手の不幸が、自分の存在理由になる。

相手の痛みが、自分を潤す糧になる。

この真理は、ともすれば非常に残酷で、利己的に聞こえます。しかし、DECO*27さんはそれを否定しません。むしろ、それこそが「愛の才能」なのだと開き直るかのように、魅力的に歌い上げます。このフレーズがあることで、「あたし」という存在は単なる優しい聖母ではなく、人間(あるいはそれに準ずる存在)らしいエゴと欲望を抱えた、生々しく、だからこそ魅力的なキャラクターとして立ち上がってくるのです。この逆説的な表現の切れ味こそ、この歌詞の「ピカイチ」な部分だと断言します。

 

モチーフ解釈:「涙」が繋ぐ二人の関係

 

この曲の最重要モチーフは、間違いなく「涙」です。この「涙」は、物語の中でその役割を様々に変化させます。

  1. 隠すべき秘密としての「涙」: 冒頭では「XX」と伏せられ、人に見せてはいけない、恥ずかしい孤独の象徴として登場します。

  2. 共感の対象としての「涙」: 「グスングスン」と泣く「きみ」に、「あたし」は寄り添い、受け止めようとします。ここで「涙」は、二人の心を繋ぐきっかけとなります。

  3. 存在意義の源泉としての「涙」: サビでは、「あたし」が「濡れていたい」と渇望する、生命線のような存在へと変化します。「あたし」は「きみ」の「涙」を飲み干し、吸い取ることで、救済者としてのアイデンティティを確立するのです。

このように、「涙」は単なる悲しみの発露ではありません。それは、孤独な「きみ」と監視者である「あたし」とを繋ぐ唯一の媒体であり、コミュニケーションツールであり、二人の歪な共依存関係を成立させるための、不可欠な潤滑油なのです。

 

他の解釈のパターン

 

この楽曲の持つ多義性は、さらなる解釈の扉を開きます。

 

解釈1:インターネット・SNS社会の寓話

 

「あたし」を特定のキャラクターではなく、インターネットやSNSというシステム、あるいはそこに群がる不特定多数の「監視者」の集合体と解釈する見方です。現代社会では、誰もがモニター(スマホ画面)越しに他人の生活を「モニタリング」しています。誰かが弱音を吐けば(涙)、多くの人々がそれを瞬時に察知し、「わかる」「頑張れ」と慰めの言葉を投げかける。時には「推し」として祭り上げ、その一挙手一投足に熱狂する。しかしその根底には、他人の不幸や葛藤をエンターテイメントとして消費する側面も否定できません。「救いたい」という言葉の裏に隠された、匿名の群衆の好奇心と残酷さ。そして、そんなネットの世界に救いを求めてしまう現代人の孤独。この歌は、そんなインターネット社会の光と闇を描いた、鋭い風刺なのかもしれません。

 

解釈2:過保護な庇護者の歪んだ愛

 

「あたし」を、恋人や親といった、非常に身近な庇護者として解釈することも可能です。その人物は「きみ」を愛するあまり、その全てを把握し、管理下に置こうとします。それが「モニタリング」です。「あなたは弱くて、私がいないとダメなの」と囁き、弱さを吐き出させ、自分に依存させることで、自らの存在価値を見出している。良かれと思っての行動が、結果的に相手の自立を阻害し、共依存の檻に閉じ込めてしまう。この歌は、「シックラブ」という言葉が示す通り、愛情が歪んでしまった関係性の危うさを描いた物語と捉えることができます。善意から始まったはずの愛が、いつしか支配欲へと変貌していく恐ろしさを、ポップなメロディーに乗せて歌っているのかもしれません。

 

歌詞の中で肯定的なニュアンスで使われている単語・否定的なニュアンスで使われている単語のリスト

 

肯定的なニュアンスで使われている単語

知ってるよ、受け止めてあげる、一緒、MWAH!、欲しい、慰めさせて、愛の才能、最高ね、感じていたい、救いたい、推す、できる子、好きだよ、会いに参上、ひとりじゃない、側にいるわ、見守っているわ、怖くないのよ

否定的/中立的なニュアンスで使われている単語

XX、ビクンビクン、ダダ漏れ、恥ずかしい、涙、グスングスン、凹んで、弱音、我慢、涸れてしまう、シックラブ、痛い、悔しがってんの、つらい時、弱い、ソロプレイ、病めるとき

 

単語を連ねたストーリーの再描写

 

あたしはきみがひとりで「涙」してるのを知ってるよ。

その「痛い」を分けて。あたしの「愛の才能」で「救いたい」。

もう「ソロプレイ」は終わり。きみは「ひとりじゃない」から、さあ。

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