こんにちは!今回は、Mrs. GREEN APPLEの楽曲の中でも特に深遠な世界観を持つ「クスシキ」の歌詞を、じっくりと読み解いていきたいと思います。時を超えて続く想いの正体に迫ります。
今回の謎
この難解で美しい歌詞を理解するために、私たちは3つの大きな謎に挑む必要があります。
- なぜ、この曲のタイトルは「クスシキ(奇しき)」なのでしょうか?この言葉が象徴する「常識では考えられない、不思議な」出来事とは、歌詞の中でどのように描かれているのでしょうか?
- 「クスシキ」というタイトルが示すように、歌詞では「愛してるとごめんね」が「月と太陽」、「愛してると大好き」が「月と月面」という奇妙な対比で描かれます。この独創的な比喩に込められた、主人公の心の機微とは何なのでしょうか?
- 「クスシキ」の物語は、主人公が「貴方をまた想う、来世も」と宣言して終わります。なぜ彼女の想いは、今世に留まらず、来世にまで及ぶのでしょうか?
これらの謎を解き明かしたとき、この歌が持つ本当のメッセージが見えてくるはずです。
歌詞全体のストーリー要約
この楽曲は、大切な人を失った魂の旅路を、3つの段階を経て描いています。
物語は、大切な「貴方」を失い、世界の理不尽さと生きることの痛みを同時に知るところから始まります。素直になれなかった過去への後悔や自己嫌悪に苛まれながらも、貴方への想いは募るばかり。最終的に、主人公は遺された貴方の「歌」を支えに、喪失の悲しみを抱えたまま、来世での再会を誓って未来へと歩み出すのです。
登場人物と、それぞれの行動
- 私: 主人公。かけがえのない「貴方」を亡くした人物です。素直に愛情を表現できなかった過去を悔やみ、強い自己嫌悪と後悔に苛まれています。「貴方」の不在によって、愛と苦痛が表裏一体であることを知り、その矛盾した感情を抱えながら、時を超えて貴方を想い続けることを決意します。
- 貴方: 物語の開始時点ですでに故人となっている人物。「石になった」と表現され、その存在は「歌」として遺されています。生前は多くの人に愛されていたことが示唆されており、「私」にとっての世界そのものでした。
- 彼奴(あいつ): 物語の冒頭に登場し、世界の矛盾を象徴する存在。嘘つきは罰を受けるという通説とは裏腹に、皆に愛されていたとされ、物事が単純な善悪二元論では割り切れないことを示唆します。
- あの子: 主人公が嫉妬と劣等感を抱く対象。「素直になれる」存在として描かれ、正直になれない自分との対比で、主人公の葛藤を深めます。
歌詞の解釈
それでは、この摩訶不思議で、痛切な愛の物語を、歌詞を追って深く潜っていきましょう。
矛盾に満ちた世界の幕開け
物語は、この世界の不可解さを嘆く一言から始まります。
冒頭で語られるのは、一つの噂話。「言霊は誠か」という根源的な問いかけに続き、嘘をついていた「彼奴」は天罰が下って「天に堕ちていった」という、分かりやすい因果応報の物語が紹介されます。しかし、その常識はすぐに覆されます。「彼奴」は愛されていたのです。
この転換が、この曲の世界観を決定づけています。つまり、この世界は、正しい者が報われ、悪い者が罰せられるといった単純なルールでは動いていない、ということです。真実と人の評価、行いと結果は必ずしも一致しない。このどうしようもない世界の「矛盾」。この割り切れなさが、楽曲全体を覆う空気感の源泉となっています。
「生きる傷み」と「奇しき」まほろば
そんな理不尽な世界だからこそ、主人公は自身の内面の自由を宣言します。そして、ここでタイトルにもなっている「奇しき」という言葉が登場します。「奇しき術から転じた まほろば」。「まほろば」とは、素晴らしい場所、理想郷を意味する古語です。つまり、貴方との思い出や、貴方を想う私の心の中にだけ存在する、不思議な術によって生み出された理想郷。それが、今の私の唯一の救いなのです。
しかし、その救いは、同時に激しい痛みを伴います。愛する人の存在を心に思うことは、生きる力になります。しかし、その人がもうこの世にいないという現実が、その存在感の大きさと同じだけの「傷み」となって絶えず襲いかかってくる。愛と喪失の苦痛は、切り離すことのできない表裏一体のもの。この痛切な真実が、早くもここで提示されるのです。
月と太陽、月と月面――奇しき比喩の意味(謎2への答え)
そして、最初のサビ。なぜ、「愛してる」と「ごめんね」が月と太陽なのでしょうか。
私は、こう考えます。月と太陽は、同じ空に輝きながらも、決して同時に並び立つことはありません。一つが昇れば、もう一つは地平線の下に隠れる。これは、主人公の心の中で激しくせめぎ合う、二つの巨大な感情のメタファーではないでしょうか。
生前、伝えたかった「愛してる」という感謝と愛情。そして、失ってしまった今、後悔と共に溢れ出してくる「ごめんね」という謝罪。どちらも本心であり、同じくらい強烈な光を放っている。しかし、この二つの感情は、決して一つに溶け合うことがない。この相容れない感情の苦しいジレンマを、「月と太陽」という壮大な比喩で表現しているのです。
この後悔は、次のフレーズに繋がります。永遠に続くと信じて疑わなかった日常。その傲慢さへの痛烈な自己批判です。そして、そんな矛盾と後悔を抱えたまま、それでも「貴方をまた想う 今世も」と、想い続けることを誓うのです。この喪失と再生の物語は、サカナクションが「怪獣」で描いた、失われたものとの永遠の対話にも通じるテーマ性を感じさせます。
奉仕と自己嫌悪の螺旋
2番に入ると、主人公の内面がさらに深く掘り下げられます。
彼女の愛の形は「奉仕」でした。自分の希望より相手の希望を聞きたがる点からも、自己犠牲的で献身的な姿が浮かび上がります。しかし、それは同時に、自分の欲望や意志を押し殺してきたことの裏返しでもあります。
そんな彼女が「一周半廻った愛」を欲する、この「一周半」という表現が絶妙です。一周回って素直になるのではなく、半端にねじれて、屈折している。献身の仮面の下で、実は普通ではない、歪んだ形でもいいから強烈な愛を欲している。そんな自己矛盾に、彼女自身も気づいているのです。「私に効く薬は何処だ」という叫びは、この複雑に絡み合った心の病を癒す術が見つからない、悲痛な心の声です。
その苦しみは、他者への嫉妬となって表出します。素直に愛情を表現できる「あの子」への羨望と、自分への嫌悪。そして、実際に大切な「貴方」を喪失した経験からくる、根深いトラウマ。この自己嫌悪は、同じくMrs. GREEN APPLEの「天国」で描かれる、失われた愛への後悔と憎しみが渦巻く心情とも重なります。
2回目のサビでは、再び奇妙な比喩が登場します。月と月面は、同じ天体でありながら、見る距離や視点が異なります。遠くから見れば神々しく美しい「月(=愛してる)」も、近づいてその表面を見れば、無数のクレーターがあり、ゴツゴツとした生々しい姿(=月面)をしています。これは、崇高で美しい「愛してる」という感情の内側には、もっと個人的で、独占欲やエゴも含むような生々しい「大好き」という感情が隠れている、ということの比喩ではないでしょうか。
言えずに呑みこんだ言葉が、毒の植物のように体内で育ち、心を「拗らせて」いく。彼女の苦しみは、どんどん深まっていきます。
歌詞のここがピカイチ!:石になった歌と、病になった歌
物語が大きく動くのは、ブリッジの部分です。ここで、彼女は一つの決意をします。
「石になった貴方」「病になった私」というこの対比に、私はこの曲の真髄を見ます。
「石になった」という言葉は、貴方がもうこの世にはいない、動かない存在(墓石のよう)になってしまったことを示唆します。しかし、彼の魂は死んでいない。「歌」として、不変の、美しい形で遺されたのです。私は、その彼の「歌」を道しるべのように口ずさむことで、彼と共に歩き続けることを選びます。
それと対をなすのが、「病になった私の歌」。彼の歌が「石」として完成されたものであるのに対し、私の心、私の人生は、まだ「病」の最中で、苦しみ、揺れ動いています。しかし、彼女はその不完全で痛々しい自分自身の「歌」をも、否定しない。ありのままに受け入れ、それを口ずさみながら、「ひとりの夜を歩こう」と決意するのです。
これは、悲しみを克服するのではありません。喪失の痛みや自己嫌悪という「病」を抱えたまま、それでも故人の思い出(歌)を胸に、未来へ向かって一歩を踏み出す。そんな、現実的で、だからこそ力強い「再生」の姿が、この対比によって見事に描き出されているのです。
「夜の太陽」と、来世への誓い(謎1、3への答え)
最後のサビで、全ての謎が一つに繋がります。
「夜の太陽」とは、本来存在するはずのないもの。究極の矛盾です。しかし、私の心の中では、闇夜を照らす太陽のように、貴方は今も燦然と輝いている。そして、その光の中では、「愛してる(愛情)」「ごめんね(後悔)」「じゃあね(別れ)」という、本来なら共存し得ない感情が、奇跡のように同時に存在している。
これこそが、この曲のタイトルである「クスシキ(奇しき)」状態の正体でしょう。常識では考えられない、矛盾に満ちた感情の共存。そして、そんな「クスシキ時間の流れで」、喪失という絶望的な経験を通して、私の魂は本当に「大切」なものを見つけたと歌うのです。
そして、物語は壮大な愛の誓いで締めくくられます。
「貴方をまた想う 来世も」
なぜ、来世なのか。それは、この想いが、今世だけで完結するにはあまりにも大きすぎるからです。貴方を想うことは、もはや単なる感傷や未練ではない。私の魂そのものと深く結びつき、私の存在理由、生きる意味そのものになった。だから、この魂が続く限り、輪廻転生を繰り返してでも、貴方を想い続ける。それは、絶望の果てに見出した、永遠の愛の誓いなのです。
アウトロで繰り返される「ゆい」という響きは、魂と魂を「結う」呪文のようにも聞こえます。来世での再会を祈る、切実で、美しい響きを残して、この奇しき物語は幕を閉じます。
他の解釈のパターン
パターン1:「神」や「信仰」との対話という解釈
歌詞に登場する「貴方」を、特定の個人ではなく、主人公が信じる「神」や「絶対的な存在」のメタファーとして解釈することも可能です。冒頭の「偽ってる彼奴」の話は、宗教的な教えや因果応報への素朴な疑念を提示しています。「あなたが居るそれだけで生きる傷みを思い知らされる」という一節は、神を信じるからこそ、この世の理不尽や苦しみがより一層耐え難く感じられる、という敬虔な信者の葛藤を描いていると読めます。「石になった貴方の歌」は、聖典や教えといった、姿は見えずとも不変の真理のこと。それを心の支えとしながら、自身の不完全さ(病になった私の歌)を抱え、信仰の道を歩んでいく求道者の物語として解釈できるのです。「来世も」という言葉は、文字通り輪廻転生や死後の世界への強い信仰を表現していると捉えられ、よりスピリチュアルな物語として響いてきます。
パターン2:「創作活動」そのものの苦悩という解釈
この歌詞を、アーティスト自身の「創作」を巡る内的な葛藤の物語として読むこともできます。「私」をアーティスト自身、「貴方」を過去に生み出してしまった「完璧な作品」や、決して超えられない「理想」の象徴と見立てるのです。その偉大な「貴方(=過去の傑作)」の存在は、創作の指針となると同時に、今の自分ではそれに及ばないという「生きる傷み(=創作の苦しみ)」を絶えずもたらします。「素直になれるあの子」とは、才能に溢れ、いとも簡単に素晴らしい作品を生み出す他のアーティストへの嫉妬の現れでしょう。「石になった貴方の歌」は、すでに世に出て評価が確立された過去の傑作。「病になった私の歌」は、今まさに産みの苦しみの中にあり、迷いや欠陥を抱えたままの新作。過去の自分(貴方)と現在の自分(私)が対話し、葛藤を乗り越え、不完全な自分を許し、それでも創作を続けていこうとする決意の歌。そう解釈すると、アーティストの魂の叫びとして、また違った深みが生まれます。
歌詞の中で肯定的なニュアンスで使われている単語・否定的なニュアンスで使われている単語のリスト
肯定的ニュアンスの単語
- 愛してる
- 大好き
- 自由自在
- まほろば
- 極楽
- 魂
- 大切
- 奉仕
- 誠
否定的ニュアンスの単語
- 偽ってる
- 堕ちていった
- 傷み
- ごめんね
- 学びやしない
- 遅れては奪われる
- 呑んだ言葉
- 拗れる
- 石になった
- 病になった
- ひとり
- 馬鹿
単語を連ねたストーリーの再描写
「偽ってる」世界で貴方を失った「傷み」を知り、
「ごめんね」と「呑んだ言葉」に心が「拗れる」私。
「石になった」貴方の歌を支えに、「病になった」魂で、
本当に「大切」なものを見つけた。
「来世も」貴方を想い続ける。